情報の信憑性を高めることができる

「訳書は信用ならないから、原書にあたる」という考え方もあります。例えば、三木清「如何に読書すべきか」には、以下のような記述があります。

原典を読むことが必要であるように、できるだけ原書を読むようにすることが好い。どのような翻訳よりも原書がすぐれていることは確かである。原書の有する微妙な味、繊細な感覚は翻訳によって伝えられることが不可能である。そのうえ翻訳はすでに解釈であるということを知らねばならぬ。ひとが原語で読む困難を避けてはならない。翻訳で読むのが原書で読むのよりも速いということはあるにしても、ゆっくり読むことはそれだけ自分で考えながら読む余裕を与えることにもなるのであり、そしてこれは大切なことである。原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものでなく、その思想の蓄積であるということができる。勿論あらゆるものを原書で読むということは不可能であり、またあらゆる場合に原語で読まねばならぬというわけではない。原語で読むことができないという理由でそれを読まないのは悪い口実である。また翻訳で間に合わせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むようにしなければならぬ。翻訳の方が簡単であるからというので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であって、便宜主義は読書においても有害である。

但し、私はこの考え方に全面的には賛成できません。人文科学であれば確かに「原書の有する微妙な味、繊細な感覚」を味わうことは重要でしょうが、社会科学や自然科学の場合は、基本的に情報を摂ることが目的で文献を読みますので、そこまで文体にこだわる必要もないのです。このように、単に情報を摂ることだけが目的なら、翻訳のある部分は翻訳で手っ取り早く済ませて、まだ翻訳のない知識を洋書で摂取することにリソースを集中したほうが効率的だと思います。上記のような学問的厳密性が要求されるのは、論文を執筆する際にソースとして参照する場合のみであり(翻訳だけ参照して原文を参照していないような論文は学術的に問題があります)、基本的に学術研究者のみが遵守すれば十分なテーゼであるはずです。したがって、このテーゼを一般人にまで拡大して適用しようとする上記の記述は、明らかに行き過ぎといえます。

また、単純に訳書のほうが原書よりも優れている場合があります。例えば、難解な原書を十分な予備知識を基にこなれた訳文にした訳書などは、原書よりも優れている場合があります。例えば、長谷川宏先生によるヘーゲルの翻訳は良い例です。また、国際法のある高名な教授(ドイツ人)は、ドイツ人学生に向けて、「カントのドイツ語が分かりにくかったら、ドイツ語で読まずに英訳を読みなさい。原書より全然分かりやすいから」という話をしていました。ですから、何でもかんでも原書のほうが優れているという発想は、やはり行き過ぎだと思います。

ただ、前述の通り、論文や著書を書く場合に、訳書だけを参照して書くというのは、学問的に不誠実です。なぜかというと、翻訳というのはしばしば間違っているからです。そういうと驚かれるかもしれませんが、何の訳書でもいいですから、一度原文と訳文を実際に見較べてみて下さい。予想以上に誤訳が多いことに気付かれると思います。また、間違いではないにせよ、(おそらく訳者が内容をきちんと理解していないために生ずる)不適切な表現というのも結構あります。ひどいのになると、原文の一部が訳文ではまったく省略されてしまっている場合すらあります。

したがって、きっちりと原書を参照した上で論文や著書を書かないと、その論文や著書の学問的信憑性が疑われます。逆に言うと、洋書をきっちりと参照することは、情報の信憑性を高めることになります。

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